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以久波 宿名の由来



ここ「うきは」は、716年に平城宮跡出土の木簡に「筑後国生葉郡云々」と郡名の初見がみられる生葉(いくは)であり、浮羽と変わったのが明治となってなので1200年余りの間は生葉は使われていました。その生葉(いくは)は「和名抄(平安時代に作られた辞書)」に「以久波」と訓じるとあることから宿名としました。


九州最大規模の前方後円墳である田主丸大塚古墳が的臣(いくはのおみ)の墓だという説がある。的氏が田主丸を含めた古代の浮羽(生葉、以久波とも表記)を治めていたと思われる。古代、氏族名は地名の読みからとることが多くこの説の由来である。


「日本書紀」景行天皇18年8月条に景行天皇が盞を忘れ残した土地を筑紫の人々が的(いくは)・浮羽と呼んだことによるという説や,「筑後国風土記」では、忘れた酒盞を景行天皇が「惜乎朕之酒盞」と悲しまれたことから「宇枳波夜(うきはや)郡」(俗に酒盞(しゅはい・さかずき)のことを宇枳(うき)と称した)というようになったとする説など諸説あります。


的邑(いくはのむら)、以久波、宇枳波、生葉、浮羽と色々な漢字で出てくるが全てこの地である。この地に宿を構えるにあたり、古民家の歴史を大切に思う気持ちを持って宿名を「以久波」といたしました。



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